「明治伊万里」復刻プロジェクト 明治伊万里とはー有田焼とは? その歴史的背景は?

HOME > 明治伊万里とは > 明治伊万里とはー有田焼とは? その歴史的背景は?

有田焼とは? その歴史的背景は?

有田の地で生まれた日本初の白磁器

 九州北部の焼き物の歴史は、日本の焼き物の歴史からみたらそれほど古くはありません。そのなかで最も古いのは、僕が知る限りでは、16世紀末に生まれた、茶陶として名高い唐津焼です。もともと、この一帯は、中世から松浦党という日本海を活躍舞台した強力な海人武士団の勢力範囲でした。織田信長、豊臣秀吉が権力を握っていたこの時代、戦国・桃山時代ですね、戦国武将の間では大変な茶陶ブームでした。「茶碗一個やるから、その領地をよこせ」なんていうことがいくらでも行われていたというほど、茶器はものすごく価値のあるものでした。特に朝鮮や中国産の焼きものは唐物(からもの)と呼ばれて、珍重されていました。そんな時代背景もあって、優秀な技術を持った陶工集団が朝鮮から招かれていたと思われます。そして、その陶工たちが唐津の山奥にある岸岳というところに陶土を見つけ、窯を開いたのが唐津焼の始まりでしょう。
 1592(文禄元)年、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際にも、多くの藩が陶工を日本へ連れ帰りました。その中の一人、肥前国の鍋島藩主・鍋島直茂が連れ帰ったのが、李参平(りさんぺい)という陶工です。彼は1616(元和2)年、有田の泉山というところで良質の白磁鉱を発見しました。そして、そこに天狗谷窯を開き、日本で初めての白磁器を焼いたのです。これが有田焼の始まりとされています。
当時は「有田焼」という呼び名はなく、肥前一帯で作られる磁器系のものを総称して、積み出し港の名をとって「伊万里」と呼ばれていました。ちなみに、土物系のものは、唐津焼といったり、武雄焼といったり、地元では「どもの」と呼んでいました。
map.jpg なんといっても日本で初めての磁器ですから、当時の伊万里は非常に貴重でした。それまでは、天皇家も貴族も将軍も各地の大名も、みんなものすごく高いお金を出して中国や朝鮮から買っていたわけですからね。「日本でも磁器が焼ける」「すごいものを有田で作っている」というのはあっという間に広まって、点在していた陶工集団が有田の地に押し寄せてきたのです。
いくつかの窯焼きが大集団を組んで、ものすごく朝鮮渡来の大きな登り窯を作って、共同で焼くわけですよ。作る量も大量なら、焼くために伐採する木の量も半端じゃない。すると、そこらじゅうがハゲ山になるわけです。そうした山林の乱伐や粗製濫造を規制するために、1638(寛永15)年、鍋島藩は伊万里・有田地区の窯場の管理体制に入りました。
 鍋島藩の管理が入った段階で、朝鮮人陶工たちだけを残し、日本人陶工は一度バッサリと切られたのです。でも、1500年代末から1600年代始めにかけて朝鮮半島から移動してきたいわゆる一世の陶工集団というのは、やがて歳をとりますよね。有田焼の祖である李参平さんも含め、おそらくみんな1650年代前後には亡くなっていると思うのです。
 となると、技術の伝承をどうするかという問題が起こってくるわけで、当然ながら娘に手先の器用な婿を取ったり、息子には気だてのいい嫁を貰ったりと次第に日本人の血が入ってくる。優秀で絵の上手い日本人陶工を弟子に取ったりもする。ここからですよ。伊万里が変わり始めるのは。さまざまな捉え方がありますが、一世が生きていたであろう時代、つまり1650年代くらいまでのものが、「初期伊万里」といえるんじゃないでしょうか。

約半世紀にわたる輸出伊万里黄金期へ

 「初期伊万里」は、李朝の焼き物や明末期の中国で作られた古染付の流れをそのまま汲んだような、素朴な染付が主流です。その後、技術革新によって色絵が始まり、またオランダ東インド会社や中国人によって、中国明末の一大窯業地である景徳鎮の技術や文様が導入されるようになりました。
 そして1656(明暦2)年、明から清への移行期にあった中国では、民間貿易を禁じる海禁令が出され、磁器の輸出が停止してしまいます。
 そんな時代情勢もあって、日本の磁器が一気に注目を集めるようになったんです。1647(正保4)年には中国商人によってカンボジアへの伊万里の輸出が始まり、1650(慶安3)年には初めてオランダ東インド会社が伊万里を購入してハノイ(ベトナム)へ納めました。これによって品質水準が認められ、1659(万治2)年から中東やヨーロッパへ大量の日本製磁器が輸出されるようになったのです。この頃から18世紀初めにかけての約40~50年間は、まさに輸出伊万里の黄金時代ですね。昨年(2009年)から、「パリに咲いた古伊万里展」が日本中を巡回していましたが、確かに景徳鎮に勝るとも劣らない芙蓉手の伊万里が海を渡っていったものと思います。欧米の人たちは喜んで、競うようにして金と同じ値段で買ったといわれているのですから。当時はきっと有田中が沸いて、技術もものすごい速度で磨かれていく──そんな時代だったのではないかと思います。

伊万里の様式の変遷

about04.jpg色絵雲龍文耳付三足花瓶(復刻品) 輸出を通じてオランダや中国との関わりも深くなって、さまざまな原料が日本に入ってくるようになりました。これによって、伊万里の様式にも次第に変化が現れてきます。
伊万里が最初にガラッと変わったのが、17世紀後半に完成する「柿右衛門様式」ですね。濁手(にごしで)と呼ばれる乳白色の生地に、青・赤・黄・緑の絵の具を用いた上絵が施された、いわゆる色絵というものです。図柄は、余白を生かした日本画的なものが多く、この柿右衛門様式で初めて、伊万里に日本の美が吹き込まれたのではないかと思います。これを担ったのは、もう一世の朝鮮人陶工でなく、二世三世の日本人化した陶工集団だったのではないでしょうか。
 17世紀末になると、金彩と赤色をはじめとする多彩な顔料を用いた、豪華絢爛な金襴手(きんらんで)が登場してきます。
一方、鍋島藩の藩窯で製作された「鍋島様式」は、幕府や大名などへの献上用に焼かれた極上品で、他の伊万里とは一線を画す様式といえるでしょう。その最盛期ともいえるのが1670~1690年代ごろ。ものすごくテンションが上がって、陶工たちが技を競い合い、ガーッと上り調子だったこの時代に生まれたものが、鍋島の最高峰といえると思います。
 当時は、肥前地区、つまり有田とその周辺の波佐見窯(大村藩領)、三川内窯(平戸藩領)が日本で唯一の磁器の生産地だったわけです。ですから、鍋島藩は、焼き物製造の技法や絵付の技術が外部にもれるのを極力防ごうとして、職人の保護や育成にあたると同時に、検問所をつくって彼らを完全に外の世界から隔離しました。ところが、1806(文化3)年についに瀬戸の陶工である加藤民吉が潜入に成功するんですね。それをきっかけに、六古窯のひとつ、瀬戸でも磁器の生産が始まり、江戸末期には全国の地方窯にまで磁器の生産が広まっていったのです。こうして、美術品というイメージの強かった伊万里に対し、いわゆる“せともの”と呼ばれる焼き物が庶民の間にも広く浸透していきました。
 市場の規模だけでみたら、他の地域に席巻されてしまったといえるかもしれません。でも、「伊万里というのはそこらへんの磁器とは違うんだぞ」、「自分たちは技術を修練しながら、常に最先端のいいものを作っていくんだ」、というプライドや美意識といったものを、有田の職人たちは強く持ち続けていたのではないかと思っています。

通販・販売店

APL_logo.gif

logo_yaemon.giflogo_yaemon.gif

logo645.giflogo645.gif

logo_tcj.giflogo_tcj.gif

展示会情報

現在、展示会情報はございません。

ご来場ありがとうございました。
紀伊国屋NY本店特別展「麗しの明治伊万里」は終了しました。

●会期
 2010年
 10月23日(土)~11月7日(日)
  月曜日〜土曜日 10:00〜20:00
  日曜日 11:30〜19:30
●会場
 米国紀伊国屋書店NY本店 2階展示場 
●主催
 米国紀伊国屋書店
 有田製窯株式会社&明治伊万里復刻プロジェクト
●後援
 佐賀県有田町
●協賛
 宗政酒造株式会社 
 山下工芸株式会社
 エム・テック株式会社
●協力
 株式会社窯品計画
 朝重利文デザイン事務所
 辻調理師専門学校
●会場デザイン
 大寺康夫(JIN Woodscaps 建築家)
 ヒロ・オダイラ(Precious Pieces 和紙デザイナー)

関連リンクLinkIcon